「健常者」から「身障者」の境界線を僕らは渡る。

公開日:2017/01/28
最終更新日:2017/02/02

僕らは「健常者」と「身障者」の境界線を渡った。

※「身障者」という言葉の使い方が適切かどうかはわかりませんが「身体が不自由な人」という言葉は少し冗長的なので「身障者」という書き方をしています。

僕ら椎間板ヘルニア患者は神経痛と共同生活を送るようになってすぐに気付くと思います。

昨日までと同じ環境で生活しているが、昨日までと同じ生活が送れない。

この事実に。

コルセットを巻こうが全く効果が無い程のぎっくり腰を経験した人ならわかると思います。

  • 階段を上り下りできない
  • トイレまで辿り着けない
  • テーブルにつけない
  • 杖が無いと歩けない

こういった状況に途方に暮れた方も多いのではないでしょうか。

でも、僕ら神経痛の場合は次元が違うんです。

  • 部屋から出れない。
  • 杖があっても歩けない
  • まず何しても立てない
  • 寝返りすらうてない
  • 咳が骨に響いて激痛

流石にそれは言い過ぎだろうと思われますか?

僕はリアルにそんな状況でした。

だから、脂汗たっぷりかいて、激痛に耐えながらトイレに入った後、「本当にもう全く出ない」と確信できるまで僕はトイレでずっと座っていました。

怖いんです。

今と同じ苦労をして戻った途端に、またトイレに行きたくなったどうしようと。

もう一度トイレに戻る気力なんて無い。

その時は漏らすのか?

それは死んでも嫌だ。

何か俺、介護されるおじいちゃんみたいだな。

半ば自虐的にそう思った時、僕はふっと悟ったんです。

「ああそうか。今の俺は身体を壊した健常者じゃないんだ。もう身障者なんだ」と。

僕らは「健常者」と「身障者」の境界線を渡った存在なんです。

バリアフリーの設計は健常者がしていると思う。

僕は自分が「健常者じゃない」と気付いてから、色んな事が目に入るようになりました。

これは本当に良い経験になったと思う。

例えば市役所や病院の「バリアフリー」化について。

具体的な話は省きますが、あれは実際の身障者にとって「助かるけど惜しい」ものが多い。

尻切れトンボなものが本当に多かったと思う。

最初は「助かった!」と喜んで、最後は「え?ここで終わり?ここから先どうすればいいの?」というバリアフリー。

何度か同じ様な状況に遭遇してふと思いました。

「これ、設計したの絶対に健常者の人だ」

多分、本当に経験した事が無いから見えてないものが結構あるのだと思います。

  • 健常者の人が車いすに乗って見る世界
  • 身障者の人が車いすに乗ってみる世界

これは目線の高さが同じだけで確実に違う。

それは実際に腰が曲がって歩けない、立てない僕が気付いた。

歩ける、立てる時にこの目線になったとしても「こうだったら本当に助かるのに」というポイントは全く見えない。

目線だけ同じ高さにしても「肝心なもの」が見えてこないんです。

日本のバリアフリーは「健常者目線」で作られてるんだなぁと思い知らされました。

個人的に欧米は凄いと思った。

僕は海外生活もあるのですが、何だろう、バリアフリーという言葉は別に日本みたいに浸透していなくても、

健常者も身障者も同じ社会の中で生きているというか、溶け込んでいる感じがしました。

一方、バリアフリーだ!と謳う日本は「健常者目線」のバリアフリーはしていても「身障者」は社会の蚊帳の外に弾かれているような感覚。

何か変だなと。

何ていうのか、日本はバリアフリーを制度として、設備として取り組んでいる感じがする。

海外はバリアフリーはもっと文化的なものとして根付いているような感じがした。

何となくですが、そういう意味では海外の方が「懐が深いなー」という感じ。

何だか日本は形だけ。

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