臓器は全て「沈黙の臓器」だと考えよう

沈黙の臓器は「肝臓」の専売特許ではない。

僕らは何故か、「沈黙の臓器」というと「肝臓」をイメージしてしまうと思います。

最近ではそこに「膵臓」も仲間入りをしていますし、「腎臓も沈黙の臓器」という専門医もいます。

ぶっちゃけ僕らの臓器は基本的に全てが「沈黙の臓器」と考えておいた方が良いです。

でないと小さな兆候が出ても「都合の良い解釈」をしてしまい、気付けばもう手遅れになっているという事だって普通にあり得るのですから。

「違和感・痛みが出てない」から正常なんだろうと考えてしまう僕達。

ズバリこれです。

健康診断の数値と同じなのですが、僕らは「異常」と言われない限り、そして「痛みや痺れ」といった「異常」を自覚しない限りは「正常」だと考えてしまいます。

自覚症状が無い訳ですから異常無しだろうと。

自覚症状が無いという事は「異常が無い」というのは一見するとその通りなのですが、その捉え方だと身体を壊してから後悔するケースが増えていきます。

ここから先はあくまで僕自身の内臓に関する解釈になりますのでご容赦ください。

でも、臨床経験から感じる限り、そこまで間違っていないと思います。

臓器で違うのは「沈黙の程度」に過ぎない

僕の持論である「臓器は全て沈黙の臓器」の根拠はこれです。

どの内臓も限界ギリギリまでは「沈黙」を守り続けます。

でも、水面下の白鳥と同じで、数値上は正常値ですが内臓の内側は日々押し寄せる過負荷に対して自転車操業状態です。

必死のパッチで働いてくれています。

大阪の靴屋では無いですが「もうアカン!壊れます!」と言いながらも必死に日々の仕事に集中してくれているのです。

これ、痛みは出てこないですし、定期健診でも正常値になっている状態です。

限界を超えた時、「痛み」や「違和感」「数値の変化」が出てくる。

必死のパッチで頑張っていた臓器が「もう無理!」と限界を突破したとき、はじめて血液や身体に変化が起こります。

ギリギリのところでせき止めていたダムから水が漏れだしたイメージです。

ここまで来てしまうと、内臓を回復させるにはそれなりの時間と生活の改善が必要となります。

僕らの内臓は「オーパーツ」のような性能を誇る。

僕らはもっと知るべきだと思うのですが、僕らの身体にある内臓は全て

オーパーツ並みの性能を持っています。

これ、大袈裟だと思いますか?

全然大袈裟ではありません。本当です。

人間の科学力を超えた性能を誇るものばかりです。

人工透析の機械を見たことがある方ならわかると思いますが、人間の腎臓の大きさは「12cm×5cm×3㎝」というサイズです。

その腎臓の役割を代替する「人工透析器」はどれくらいのサイズでしょうか。

画像引用:http://u0u1.net/DBk3

これが人間の科学で再現された腎臓のサイズです。

そして、腎臓の機能を100%再現できている訳ではないという現実もあります。

つまり、可能な限り腎臓を再現した結果このサイズになったという事ですね。

今は人口膵臓も開発されている。

ちなみに、今は人口膵臓も開発が進んでいます。

膵臓のサイズは「15cm×3cm×2cm」ですが、それを科学で再現しようとすると


画像引用:http://u0u1.net/DBlb

こうなります。

最近は

画像引用:http://u0u1.net/DBlr

この様な小型の人口膵臓も開発されてきており、小型化の波が凄いです。

ですが、これは「インスリンポンプ」としての働きを担うものであり「ホルモン分泌」などの膵臓が担う他の役割はカバーできていません。

やはり「臓器を可能な限り再現した」という状態の機械なのです。

医学はまだ内臓の全てを解明した訳ではないという事を知っておこう。

僕らは「医学はもう脳を除いて人間を全て解明した」と思いがちです。

ですが、実際は「知らないことだらけ」であり「知らない領域がどれくらい広いのかもわからない」くらいの状態にあると知っておくべきだと思います。

だからといって「全てが明らかになるまで製品化は先延ばしにする」なんてしていたら誰も救えなくなります。

だから「今手元にある情報をもとにして、最善を尽くした製品を作る」というスタンスで今もなお医学は発展を続けています。

医学ですら「手探り」だという事です。

本サイトで僕は何度も口にしますが、「医学の正確な立ち位置」を大前提として理解しておきましょう。

でないと、僕らは医学との付き合い方を一生間違えたままになってしまいます。

検査結果に出る以上は「黄色」ではなく「赤信号」だと思おう。

健康診断の数値で異常が出てしまった場合、それは「臓器が疲れた黄色信号」ではなく「疲労困憊した赤信号」だと考えましょう。

疲弊している程度の臓器であれば必死のパッチで日々の仕事をこなしますので数値的には「何とか正常を維持」という状態を保ってくれます。

ですが「流石にもう無理!」となり処理が追い付かなくなった時、初めて「数値の異常」という形で声を上げるのです。

「声を上げた」時点で内臓はもう限界を超えています。

すぐにでも生活を見直して内臓を労わる必要があるのです。

数値は一過性のものか、慢性化したものかがわからない。

これは1発勝負の健康診断の欠点だと思います。

本当に内臓が限界を超えている場合、瞬間最大風速としての異常ではなく、複数回の検査でも同様に異常が出ています。

ですが、一時的な生活の乱れによる「異常数値」という可能性もやはりあるのです。

その見極めには「尿糖検査」のようにタイミングをずらして複数回の検査をするのが一番望ましいです。

でも、そんな面倒なことできないんですよね。

だから、余計に「内臓の疲労困憊」が見逃されてしまうのだと僕は思います。

「じゃあどうすればいいんだよ」という話になるのですが、どうしようもないんです。

何せ、内臓の疲労度を数値化する検査なんて僕が知る限りは存在していないのですから。

自分で自分の身体の声を聴き、内臓が疲労を次の日に持ち越さないように労わってあげるしかできません。

だから、僕ら自身がもっと内臓について学ぶべきだと僕は提案しているのです。

現代社会の生活は普通にサラリーマン生活をしていても、専業主婦生活をしていても、果ては小学生をしていても内臓に負担をかけるものに溢れているのですから。

小さな兆候は「何気なく出ている」。感じられるかが問題

  • 「自覚症状が出たら進行している」
  • 「だから定期的な検査を」

というのは健康番組で良く耳にするフレーズなのですが、僕が見てきた限りでは

「小さな兆候はチョコチョコ出ている」

というケースの方が圧倒的に多い。

それを「異常・違和感」と感じていないから放置されているだけなんですね。

後で聞いたら「そういえば・・・・・」という話がどれだけ患者さんから出てくる事か。

そして見事なまでに共通しているのは「まさかそれがこの兆候だったとは思いもしなかった」という言葉。

身体はキチンとメッセージを出しているのに、僕らがそれを受け取っていないだけなんです。

「医学をもっと身近に」と言い続けている理由の一つはこれです。

僕らの健康に関するアンテナは錆びついてしまっている。

今からでも遅くないのでもう一度それを磨きましょう。

それだけで病気を早期も早期、治療ではなく予防レベルで防げる事が増えていくはずです。

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